JP/EN

Encyclopedia of niime

播州織昔語り 西角博文さんの巻〈後編〉

2026 . 09 . 07

〈前編からの続き〉

ー玉木さんとはもともとは東京の展示会で出会いがあったんですよね。

西角「全国の産地の展示会で……その時に播州織のブースで4、5軒で出店して、アレンジワインダー(※)の機械で織ったモノを持って行っとったんや。俺も出店しながら他の産地観て回ってたし、玉木はたぶん、何をやろうか…と会場を回ってたんやな。」 ※色柄や太さの異なる複数の糸を、PCの指定通りに任意の長さで順次つなぎ合わせながら1本の糸に巻き取る、世界初の多品種小ロット織物生産システム。不規則で豊かな色彩やグラデーションを表現できる。播州織産地を中心に海外ではポルトガルでも活用されている。

ー出会った時の印象はどうでしたか?

西角「印象は、こっちに食いついて来たんと、その時にまあまあ話ししたんと、あと、その一週間後にこっちの滝野まで来たからな。」 ー玉木さん自ら!

西角「普通来る言うても来ないんや。逆にこっちまで来たから“本物”やと。それで生地を持って帰って服にして、製品にして、また一週間後に来たんかな。」 ー持ち帰った生地ですぐに服づくりをしてまたやって来た。

西角「うん。だから、行動力が普通の子と違(ちご)とったな。フットワークが軽いというか。」 ー持って帰った生地というのはその場で玉木さんが選んだんですか。

西角「そうそう。ワシがつくった生地をな。気に入るかどうかはわからんかったけど、当時織ってた生地を全部送ったこともある。」 ー展示会で西角さんの生地を観てここをこうしたらという提案が玉木さんからあったと聞いてますが。

西角「うん。そこは自分なりのアイデアはあっても、ワシがデザインして製品にするわけでもなんでもないから。」 ーデザイナーではないと。

西角「デザイナーじゃないから、自分がやりやすいやり方でやってしまうから。それからはキャッチボールをしながら一緒に彼女のスタイルを創って行ったけど。」 ーその頃は滝野で。

西角「ずっと滝野。火事が起きるまではな。その前に、俺も年とってきてたから、ずっと俺に頼っとってもあかんで、と。頼っとったら言うんか、わからへんやんか?60超えたらいつ向こうへ行くか。そう自分の中でずっと思とるからな。それで(玉木は)自分でやりかけたんかな。」 ーそういう流れで……。

西角「他所も探したみたいやけど、俺みたいな人はおらへんかったみたいやから。」 ー自分は他とはちょっと違うというのは昔からあったんですか。

西角「結婚した当時は自分でやりたいと思ってたけど、嫁さんが反対したからな。今は厚生年金があって、なんとか飯食うとるんやけどな。それは感謝やな。せやから、老後に独立して会社起こしたみたいなもんや。事業始めたわけやけど、そんなに大袈裟に思てないで。時間潰しにしょるだけやから。たとえお金は残らんでもアカにならへんかったらええくらいで。嫁さんにも迷惑かけんと、楽しく暮らせたら、くらいな感覚な。今はな。」 ー自然体ですね。

西角「過去とかそんな考えてへんから。“前”しか。次あれしようこれしようとか、お客さんがこう言いよるからこんなんつくらな、とか。それしかないから。時間が足りひんけど、遅うなったら(奥さんに)怒られるから、作業時間を決めとる。次の日に作業が残っても、それはかめへんねん。」 ー玉木さんとtamaki niimeのこれからに期待することは。

西角「好きなようにやって行ったらいいと思う。壁にぶち当たったら、引いたらいいから。自分も、誰でもそうやと思うけど、失敗をたくさんしとるほど強みやから。」 ーそれはモノづくりの上でもなんでも…。

西角「うん、なんでもな。やってみて、こっちではあかんかったけど、別のところでええアイデアが浮かぶ時があるからな。違う目線で見たら、うまく行く。」 柔軟に、損得を抜きに面白がって玉木と二人三脚で生地開発を共にできる西角さんという職人の存在は、播州織産地においても特異だったのだろう。西角さんにとっても、玉木との出会いは大きな刺激となったに違いない。

ー播州織の生き字引として、昔のお話を聞きたいんですけど。

西角「終戦後ぐらいに分業みたいなのができたんかな。昔ながらのやり方は他の産地に行ったらね、ちょっと残ってると思う。」 ーそれは大量生産じゃなくて…

西角「もう工芸品やね。」 ー手工業ですね。

西角「そうそう。」 ー西脇のまちなかで工場をされてる家の向かいに納屋みたいな建物があって、昔はその中で染色をしていたと聞きました。

西角「戦前から工場しょるとこってほぼせやねん。戦後になってきてから多分分業になってきてる。昭和20年~30年代かな。」 ーはぁ~……産元さん(※)も、もともとは機屋さんをされてたわけですか?

※産元商社。繊維産地に拠点を置き、原糸の手配から織布・染色加工・製品化までの生産管理を一貫して元請けする繊維専門の商社のこと。

西角「西脇の老舗の産元さんなんかも機屋しょったったと思うんやな。せやから機屋さんが産元業になってん。」 ー西角さんとこも昔は大阪まで生地を売りに行きよったったんですよね。

西角「それは戦前やからな。」 ーその頃は産元さんてなかったんですか?

西角「出来たんは戦後やないかな。いつ頃からか……それは産元さんに聞いたらわかるんとちゃうかな。」 ー分業で機屋から産元になったところもあれば、機織りに特化して行ったところもあったということですか。

西角「そうそう。分業になってから機屋がドンと増えたんやからな。」 ー増えたのはガチャマン景気(※)の頃でしょ?

※戦後まもなくの日本で発生した景気拡大現象。「(織機を)ガチャンと織れば万の金が儲かる」といった意味合いで「ガチャ万」とも表記される。西脇には西日本など全国各地から就職で多くの人材が集まってきた。

西角「ガチャマンじゃなくて、なんで工場が増えたか言うたら、織るまでの準備せんでええとか、糸を買わんでええとか、色々あってん。」 ーあ、そうなんや。

西角「自分で全部しようと思たら糸を積もりせなあかんやん。」 ー大変やったと。

西角「糸ひと梱(※)買いよったら家が建ちよってんから。今も梱20万か30万。昔は4、50万円しよったと思うねん。戦前はその金で家が建てられたらしい。糸の値段が高かったから。」 ※梱(こうり / こおり)取引で使われる、約180kgの糸をひとまとめにした単位(重さは素材やメーカーによって変わる)を指す。

西角「昔は資金がなかったら、織物業は出来なかった。糸を買うお金がなかったら出来へん。産元さんに紡績が付いて来たから……」 ーああ、そうか……。産元さんが元締めしてたらそこまで資金がなくても織物工場ができるようになったと。それで機屋をやる家が増えたわけですね。ウチは多可町の加美区ですけど、子ども時分(昭和40年代)は集落内あちこちにたくさん工場がありました。

西角「そらもう軒並みあってん。滝野でも50軒くらいあった。だから、工場が簡単に出来るようになったんや、織機さえ入れたら。」 ー機械はローンか何かで買いよったったわけですね。

西角「うん、機料屋さんからな。今の家のローンみたいなもんや。」 ーそうかぁ…。

西角「戦前やったら……玉木や、俺らでもそうやけど、『糸手当て』ゆうて、自分で織る人は糸も自分で準備せなあかんかったけど、分業になってからはそれをする必要が無かってん。ただ織るだけやから。それがええか悪いかは別にしてな。」 ー言い方はアレですけど、当時は儲かるから皆工場やろうかと……

西角「儲かるからしよったってん。織機四台くらいやったら家の納屋で出来たやろ?」 ーウチの親戚も納屋に機械置いてやってましたね。

西角「商品の在庫を置く場所要らんやんか。糸を置く場所も要らんやんか。そうゆう条件が良かってん。その頃は儲かりよったから。織ったら織っただけ儲かりよったから。うん。」 ーなるほどです。

西角「終戦直後は糸がないから、ウチらでも親父が近所の親戚のおっさんと『ガラ紡(※)』ゆうて機械を作ったらしい。滝野にあった布団屋さんから布団の打ち直しをした残りのボロボロになった綿をもらって来て、それからガラ紡で糸を作りよってん。その機械どないしたん?ておっさんに訊いたら、納屋を片付けた時にみんなほかしてもうた、もうちょっと早よ言うてくれたらあったのに、と言われて(笑)。地元の大工さんとかブリキ屋とか、お前の親父と一緒に作ったんや、って。」 ※ガラ紡(がらぼう)とは、明治初期に長野県出身の発明家・臥雲辰致(がうん たっち/ときむね)が考案した独自の紡績機、またはそれで作られる温かみのある糸のこと。稼働時に「ガラガラ」と大きな音を立てることからその名が付いたそう。

ーへぇ~…。。

西角「昔はそやから、はっきり言うたら、今の玉木のやり方やな。」 ー全部自分たちでやると。

西角「自社で織って売って。大阪の綿布屋さんまで売りに行きよったんかな。繊維商社がいっぱいあったんと違う。」 ーそれは大阪の船場とかですか?

西角「うん。(頷く)」 ーそれは西角さんとこだけじゃなくて、どこの機屋さんもされていたということですか。

西角「今みたいに交通の便がええことないやん。戦前は大阪まで行くの大変やん。それで、金の集金に行ったら向こうがおらへんとかな、踏み倒されるとかな。そんなんいっぱいあったみたい。ウチらそれで貧乏しとんねん。」 ーそんな悪どいことが…

西角「いやいや、そんなん仕方のないことや。今はそんなないけど、昔は夜逃げしよったから。おらんようになって。ウチらも財産があったからやれてただけで、なかったら出来てへん。今は財産がなくても出来る。昔は誰も金貸してくれへんし。土地持ってなかったら。」 ー……。戦後分業化が進んで、ガチャマン景気で、機屋さんがたくさん必要になったところがあるんでしょうかね。

西角「ガチャマンになって来たから機屋さんが増えたんかな。ウチも大儲けしたんやけどな。」 ー昔の、一軒で色んな工程をされてた時代と、分業化してからの時代の違いとかはどうなんでしょうか。

西角「昔自分とこで糊つけしよった頃は、昼は機械止めよったからな。シャトル織機やったから、休憩時間が来たら止めると。」 ー止めるということは…

西角「ゆっくりやね。人間らしい生活やな。」 ー現代は忙しないと(笑)。今の工場のイメージは24時間機械が動いているという感じですけど。

西角「量を織るだけしかやらないんやのうて、その昔は、産元さんから糸だけ支給されて、カセ取りして、それで自分のとこで染め出しして、染工場に頼んで、染められて来たやつを自分とこでのり付けして、それを自分のとこで部分整経、巻きを作って、それで織ったものを加工場に出しよってん。だから、今はその、糊付け屋さんとか、産元が管理するようになったから。自分とこでカセ取りとか糊付けとかしよった頃は、そんなに機屋は増えてなかった。」 ー織るだけじゃなくて色々な工程をやる必要があったけど、機屋さんが自分で仕事をコントロールできてたと。

西角「織る能力だけやなくて、ワシらは色々と観て来とるから、今でもこうやってモノを考えて糸をこうしようああしようとか言えるけど、今の人はたぶん、全体を知らんから。」 ー全工程の一部しか知らないと。

西角「玉木のとこのええとこは全体がわかるから。うん。」 ー自分で全部管理出来るというのは強いですね。

西角「儲かるか儲からんかは別やけど、せやからワシらでも完璧に…なんか、そういうのをしたかった。昔現役の時にやりたかってんけどしなくても仕事があったから、それで飯食えてたから別に良かった。わしはずっと危機感持ってたから、それで自分が経営者になったときにその意志を持ってやり始めたけども、なかなか自分で売るっていうのは、やっぱり難しい。僕らは製品を作る側から入っとるから、玉木さんみたいに売ろうから入ってくる者は絶対にええねん。」 ーなるほど、川下から行く方が。

西角「それが一番重要や。川上から川下に行こうと思たら、壁を感じる。売るっていうところの。」 ー最終は売るっていうところですね、やっぱり。

西角「変な言い方やけど、売れたらつくれるんよ。」 ー名言ですね…。「売れたらつくれる」。

西角「自分とこで作れんでも、あちこちに仕事振ったら作れるねん。産元さんはそれで成り立つねん。」 ー副業がメインになって行ったり…

西角「ワシらでも、ウチの元々の会社でも、副業で不動産があって、アパートの経営もやってたから織物が悪くなってもなんとかやっていきよった。昔組合の役をしとった時に言うたわ。50代の頃かな。西脇があかんようになるの見えとったから、みんなで橋の上、手ェつないで渡らんと、離して走ろう、落ちるもんは仕方ないって言うたら、すごい怒られた。『何ちゅうことを言うんや!』って。いや、ウチも落ちるかもわからへんけど、生き残ったものは強(つよ)なるから。組合的には損やけど。」 ーそれはそうですよね…。

西角「わからんことないんやで。せやけど、京都でも残ってる機屋さんは変革しとったからな。“伝統”って変わらなあかんねんけど、西脇は変わってなかったから。皆んな守りに入るねん。跡継ぎの長男は守りに入るとこがあるから、ワシは長男やなかったからよかったかも知れへん。勤め人やった時に、息子に、『お父さん、自分の会社やないからそこまでできるんやな』って言われた。」 ーさっきの話ですが、西角さんも、もう全部自分でやろうという想いがあったんですか。

西角「自分の目が届くところでやらないと、自分で管理できないと絶対あかんと思ったから。自分自身で織るとなった時にオリジナルを創らないととなって、アレンジワインダーを使って色んなモノを創った。他にない商品を創らないとやっていけないから。」 ー“自立”というか。

西角「自分で売り値を決められないと、これなんぼでしてくれと頼まれて合わんでもせなあかん。だから、コップから水が溢れるように仕事があった時代は良かったやん。それがコップの中に収まってしもたら向こうのいいなりや。だから、自分で値段つけてるやん。こんな値段つけてええんかな?と思ってつけるやん。お客さんによっては、播州織の昔を知ってる、昔からの感覚の人は高いと言うし、昔を知らん人は、いやもっと高う売りなさいと言われる時もある。お客さんによって全然違う。」 ー値決めは自分で…

西角「コストかかった分はちゃんと足してるけど、絶対に売れなあかんと言うのはない。俺、これで飯食うてないから。年金で食えるというか、贅沢してないから。旅行も行けへんし。自分の身体がついて行けへんのんわかっとるから絶対無理しない。」 ーお元気に見えますけど。

西角「元気そうに見えるかもしれへんけど、無理したらちょっとの間しんどくて回復せえへん。それで年寄りは悪くなって行くねん。だからもう最初から無理しないでおこうと。朝7時半から午後3時までやってたんを今2時半に終えると決めたんやな。もう身体が80になってきたら、疲れが取れないのがわかって来とるから。朝は5時に起きるから、別に朝早いのはかまへんねん。朝7時にはここに来てる。」 ー織る量もセーブしとってんですか。

西角「出来た分しかせえへん。なんぼ創ろうとか全然決めてない。」 ー自分にノルマもかけてないと。

西角「ノルマはしてない。受注言われる時もあんねんけど、しんどいから、なるべくどこか、知り合いのところの工場に話しに行って、やってくれへんか、と。」 ーもう、断りよってやね(笑)。

西角「納期言われへんかったらしたんねんで。だいたい言われるやんか。腐れ縁で作ったげたりするけど…こないだもお前んとこでしてくれって言われたんやけど、いちいち邪魔くさいし、しんどいし。」 ーもう今創るのは自分で売るための商材というか、西角さん自身の作品やね。

西角「趣味か道楽みたいなもんや。友だちにも、いや、健康維持のためにしょるだけやとか、そうゆう言い方しかできへんな。創っていて楽しいかどうかもものすごい重要ねんな。楽しくないことはしたくない。」 ー楽しむ姿勢は玉木さんにも通じるところですね。

西角「売れるもんは自分のしたいこととちょっとずれとるから、玉木さんは自分のしたいことしても売れてるからええけど。お客さんの声聞いて創ってるんやけど、たまには自分のしたいことをしないと。お客さんからほしいと言われる生地も作るんやけどね。こんなんほしいあんなんほしい言われたら作っとかな。作っといたら、そのうちなんとかなるやん。」 ー新たな展開があるかもしれません。

西角「ここへ来てお客さんの数が増えたんや。お客さんに言われて仕方なしにしよるねんで、インスタな。それを見てお客さんからあれ置いといてとか言われるねん。」 ー個人のお客さんですね。

西角「個人。作家さんみたいな人やな。自分で服を作って。こないだ東京の人から生地分けてほしい言われたんやけど、それまでにこっちのお客さんが取って行くんや。」 ー早いもん勝ちみたいな。

西角「向こうに送られへん。もう俺ら、東京とか遠くと取引したいとかも思えへん。ここらで売れて、地で作って地で消費出来たら一番かな。」 ー地産地消(笑)。最高やないですか。

西角「あるねんで。実際送る時もあんねんけど、自分で直に、自分で直接お客さんに売るんが一番ええんかな。」

Original Japanese text by Seiji Koshikawa.
English translation by Adam & Michiko Whipple.